先日、『顔のないヒトラーたち』という映画を観ました。
顔のないヒトラーたち [ アレクサンダー・フェーリング ]
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あらすじ:
1958年、フランクフルト。アウシュヴィッツは知られていなかった。戦後十数年を経て、西ドイツは経済復興の波に乗り、殆どの人が戦争の記憶、自分たちが犯した罪を過去のものとして忘れ去ろうとしていた。そんな時、一人のジャーナリストがアウシュヴィッツ強制収容所で親衛隊員だった男が、規則に反し、ある学校の教師をしていることを突き止める。駆け出しの検察官ヨハンは、上司の引き止めにも耳をかさず、この一件の調査を始める。ジャーナリストのグニルカ、強制収容所を生き延びたユダヤ人のシモンとともに、アウシュヴィッツでの悪行に関わりながら、罪を問われることなく普通に市民生活を送っている元親衛隊員個々人の証拠を集め、主席検事バウアーの指揮の下、ナチスがアウシュヴィッツでどのような罪を犯したのか、その詳細を生存者の証言や実証を基に明らかにしていく。そして、1963年12月20日、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の初公判が開かれた。(公式ウェブサイトhttp://kaononai.comより)
6月上旬に、アウシュヴィッツへ行きました。日本人ガイドさんにガイドしていただき、アウシュヴィッツとビルケナウを見学。帰国し、もう少しホロコーストに関わることついて知りたいなあと思い、たまたまTSUTAYAで見かけた作品がこちらでした。
アウシュヴィッツへ行ったばかりということもあり、この映画のすべてにひきつけられました。
有罪か無罪か、どんな罪か・・・大切なのはそこではなく、ヒトラーだけでなく一般市民が罪を犯した、それをドイツ国民に知らせなくてはいけない。
アウシュヴィッツでは、ヒトラーやナチスがこんなに酷いことをした、ということではなく、収容者がどのようにしてアウシュヴィッツへ連れてこられ、どのような生活をし、どのように殺されていったか、そして二度と同じようなことを繰り返してはならない、ということを伝えていくことが大切だと、ガイドさんも言っていました。
また、無関心というのは本当に恐ろしい。無関心は、実は一番の罪かもしれない。無関心は、時にヒトラーのような考えを持つ人間の存在を許してしまいます。同じ過ちを繰り返さないためには、国民ひとりひとりが自国の政治に関心を持ち、自分の意見を持つことが大切だなあと思いました。
日本は、大丈夫かな?情けない話、日本の政治や歴史に関して、関心を持っている(ふりをしている)ようで実はよくわからなかったりすることもたくさんあります。終戦の日も近づいてきました。今一度日本の政治と歴史にしっかりと目を向けてみようと思います。
映画の感想をもう一つ・・・服の破れを二人の関係にたとえているところが、面白かったです!
おわり。
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